適当を、本来の意味で…
お久しぶりです。
いつの間にか20日くらい経っていてびっくりしている狐野です。
適当という言葉は、適度に当てはまるという字の如く「ちょうどよく合うこと、ふさわしいこと、度合いがちょうどよいこと」など、本来は悪い言葉ではないのですが、最近は「適当にあしらう、これ適当にやっといて」などと言われると嫌なイメージを受けてしまいます。
言葉というのは使われているうちに悪い意味が付け加えられたり、違う解釈が広まり、それが一般的な用法に変わっていったりするものです。調子に乗る、気分がいい、気味がいい等々辞書を引くと悪い意味は書かれていていないのに、嫌味や挑発に使われる言葉になることもあり、そちらのイメージが強い方も多くいるのではないかなと思います。
私は言葉を正しい意味で使いたいし、嘘は吐きたくないのです。
ある日の仕事の報告書で「今日は機械の調子がよくて仕事がスムーズに進み、気分が良かったです」的な感じで書いたところ、それを見た上司に「気分がいいって何?嫌味?仕事軽くみてるの??」といった感じのことを言われてしまい、とても戸惑いました。
もちろん、全くそんなつもりもなく、素直な感想で気持ちよく仕事ができたのを「気分がいい」と書いたことで、誤解を受けたようでした。
辞書を引いてもいい意味として書かれていることが多いのに何故嫌味だと言われるのだろう?と疑問に思ったのを今でもハッキリと覚えています。
障害特性上、嫌味やお世辞、社交辞令、慇懃無礼になることが分からないため、コミュニケーションにはいつも悩まされます。
パートナーが嫌味っぽい言葉や喧嘩を売るような態度に敏感なこともあるので、言葉を発するのに気をつけなくてはいけないのですが、うっかり口にしてしまうと雰囲気が悪くなってしまうこともあり、何故理解できないのだろうと自分を責めたりもしてしまいます。
自分にはない感覚を覚えるのはなかなか骨が折れますが、1つでも多く身につけないと社会に馴染めないなぁと実感します。
嫌味やお世辞は、ドラマや漫画などで俯瞰で見ると理解できるのですが、自分が言われたり言う立場になると理解が追いつかないので困ることが多いです。
対処法としてはパターンで覚えていくしかないのかなとは思います。
人それぞれで感じ方も違いますし、ゲームをするような感覚で、この人はこの言葉に反応しやすいな…とその相手を攻略する様に考えるといいのかも知れません。
パートナーはどうもパターンが読めずなかなか実践はできてないですが、頑張って覚えていかねばと思います。
今回は、言葉を本来の意味で使うとあらぬ誤解を生むことがある、というお話しでした。
皆がみんな、言葉を同じ意味で捉えてくれたら楽なんですけど、育った環境や触れてきた作品などで感性が変化するので簡単にはいかないですが、試行錯誤しながら適応できるように頑張りましょう。
では今日はこのくらいにしておきます。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
またこちらでお会いできますように。
続きではなく、新たな1日(ライフハックあり)
ご覧いただきありがとうございます。
毎度毎度お久しぶり過ぎて申し訳ありません。狐野です。
7月から気になるアンケート(@kininaruenquete)というアカウントも始めてみましたので、ご興味がありましたら投票やフォロー、拡散をしていただけるととても嬉しいです。
そちらは気軽にできることもあり、毎日1〜数回はアンケートを行なっておりますので、何卒よろしくお願いいたします。
さて、宣伝はこのくらいにしまして、タイトルの方に入っていきます。
続きではなく、新たな1日、というのはですね、まぁ読んで字の如くなのですが、寝たら忘れていることが多すぎて、他の人にとっては、それ何度目の失敗なの?一体何回同じことを繰り返すの??という印象を持たれることが多いのですが、当事者の私はと言いますと、昨日のミスは昨日のミス、今日のミスは初めてだから平気かな、的な感覚に陥ると言いますか…文字だけで見てるとなんのこっちゃ…?という感じだとは思いますが、実際にこんな感じで日々ミスを繰り返しては上司に怒られておりました。
マルチタスクが苦手なため、何かやってる途中で声を掛けられては何かを放置してまたそれと別のことをして、あっちに手をつけこっちに手をつけ、なんか忙しくしてるわりに何も終わってない…定時に上がれるはずが全然片付いていない…という毎日に上司も怒るのに疲れ、うんざりし、私も怒られるのに辟易し、仕事のパートナーを巻き込み、取引先の人には心配され、お客様にもご迷惑をお掛けしたりと散々なことがあり結局続けられずに今に至ります。
ミスした日は「翌日は絶対ミスしないように気をつけなきゃ、ミスしないように管理するにはどんな工夫をして、こうしてああして、うん、明日は大丈夫!」と思うのにまた似たようなことでミスを繰り返していました。
昨日のことなのにもう記憶がないのか?と思うほど同じようなミスの繰り返しで、そりゃ上司としてもたまったもんじゃないですよね…
それこそがADHDあるあるではないかと思うのです。
何かの途中で他のことに意識を持っていかれると、元々やっていた作業に戻れなくなることは、定型発達の方でもあることかと思いますが、その頻度と言われるまで気が付かないほどの忘れっぷりで日常生活にも支障をきたすのが障害と言われる所以ではないかと思います。
他の当事者の方々も綴られているかも知れませんが、やはり思考の散らかりと言いますか、自分で気を付けていてもなかなか意識することが難しいのです。
そこで私は最近、少し工夫をしてクリップにタスクを書き込み、必ず目にする所につけて忘れづらくなるようにしてみました。
今はもう仕事から離れていますので、日常生活でのことになりますが、こんな感じです。
首元を自分で撮影するのが難しかったのでこちらは裾につけているのですが、読んでいる本の表紙や携帯ケース、襟口や袖口などの絶対目につく場所、少し気にはなるけど集中はできる場所につけるのがオススメです。私は襟口につけるのが気になり過ぎずに意識し続けられて良かったです。
洗濯開始したら2つつけて、干したら1つ戻して、順番はいつも同じ並びになるようにしておく、といった感じです。
明日は掃除機かけるぞ、と決めたら寝る前に携帯や起きたら必ず見るところに置いておくとか、自分が使いやすいようにするのがいいと思います。
どちらも100円ショップで購入したクリップ(20個100円くらいの)とシール(数百枚セットの1.2㎝×3㎝)ほどの小さなやつですが、絶対気になる所や目につく所につけておくとやってないのが一目瞭然ですし、多くなってもつけられる大きさがいい感じでした。
私はよくやるタスクはペンで書いていますが、たまにしかやらないものは消せるタイプのペンや鉛筆で書いて同じのを繰り返し使ったりしてもいいかなと思います。うちのは貼っても剥がしやすいシールなので、予備も沢山あるし重ねて貼ったり取り替えればいいんですけど、どうも貧乏性が出てしまい、1回で捨てるの勿体ないと思ってしまいがちです(笑)
写真はシールを半分に切って使っていますが、切らなくても1mmはみ出すかどうかくらいでしたので、そのまま使っても問題ないかと思います。クリップやシールの大きさや色はお好みで変えてみてください。推しの色で文字を書いたり、クリップに好みの柄をつけると見るだけでテンションが上がったりしますよね♪
これはよく怒られていた職場でのアドバイスで「何かやってる途中のものがあったら絶対目につく所にヘアクリップでもつけておきなさい」と言われたことをヒントにしてみました。ただ、何も書かれていないクリップをつけたところで、「なんでこれをここに付けてるんだっけ…?」とならないとは言い切れないですし、たくさんつけたらどれがどれだかわからなくなるので文字を書けるようにしてみました。
どなたかが同じようなことを紹介されているかも知れませんが、ここで知ったよ、自分もこれでできそうかも、と思われた方は是非取り入れていただけたらと思います。
同じような苦労をされている方々が、少しでも生きやすくなったら私も嬉しくなります。
もしお役に立ちましたら、メッセージをいただけたりしたらここに来る励みになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
またこちらでお会いできますように。
違う感覚がわからない
お久しぶりです、狐野です。
会話をしていて、なんか違うな、と思うこと、多々あると思います。
それは生きていれば感じる事がないと言っても過言ではないのではありませんか。
そういう違和感って、定型発達と言われる方々はすぐに気がついて訂正できることもあるかと思いますが、それに気づくことなくそのまま進めてしまうのが障害と言われてしまうことの一つではないでしょうか。
そういった感覚は、病院で何かしらの診断をされた方の中にも敏感な方もいらっしゃるので一概には言えませんが、自分とは違った育ちをしていて、考え方や捉え方、伝わり方が違うということに気がつく事ができないと思う方もいらっしゃるかと思います。
私もその一人ですので、相方とはよく衝突しています。
この言葉で伝わる"だろう"と思って口にした言葉が、主に悪い方向に誤解されてしまい、その言い方はちょっと…となりがちです。
一旦考えてから口に出せたら生じないことなんだと思うのですが、衝動で動くことが多いし、いちいち考えてたら何も言えなくなりそうだし、思ったままを口にしてしまうんですよね…
身につけると自動で相手に不快を与えない言葉に変換してくれる道具があったら欲しいくらいです(笑)
気をつけていても、どこにあるのか分からない地雷を踏んでいるようなものなので、なかなか難しいのですよね…気をつけている"つもり"になっていることも多いです。
そもそも、少し気をつけたくらいで直せてたら障害とは言われないのだと思います…開き直ってるとかではなく、悩んではいるけど、自覚が難しいといった感覚だと思います。
違和感を覚えたとしてもそれを言語化することが難しかったり、言語化出来ても説明するのが長くなってしまうと相手も飽きてしまうことがあるし、端折れば伝わらないし、本当にコミュニケーションは鬼門ですね…
他人との感覚の違いがわかるようになりたいものです。
これについては専門書を読んだりして一般的な感覚を覚えたり、理解したりして対策して体に染み込むまで繰り返し練習するしかないのかなと思いますが、成果を得られないと飽きてしまったり、書いて覚えようとしても書いたことすら忘れてしまったり、記憶させることも難儀だったりします。
一人でできない時は協力してくれる人がいたらお願いしたりできるといいのかもしれません。
前回のように頼むことも躊躇われる場合はそこからの練習になるかと思いますが…(かく言う私も)。
そんなこんなしているうちにいつの間にか月日が経っていくという悪循環から抜け出せなくなったりする日々です…
本当、根性なしと言われても文句は言えないんですよね…
そして本を読むとかゲーム、楽しい事に逃げて行ったり……
そこで自分の居場所を見つけられて、幸せに過ごせたら、それはそれで良いのかも知れないです…今は生活に困らない程度に生きていくのです。
何かをするにも大体のことには知識が必要で、ネットで調べるにしろ、他人に相談するにしろ、ちゃんと選ばないと騙されたりするし、善悪の判断もできないと難しいので、外れずに生きるのって大変だなと、思うのです。
生活して何かを消費してるだけで、少しは世の中のためになっていると思っているのです。
息をしていたら植物の光合成のためになるし、何かを買えば消費税を払っているし、もし死んだら他人に(死後の後処理諸々で)迷惑が掛かることの方が多いと考えると、せめて生きて余計な迷惑を掛けないようにしよう…となったのが今の私です。
こんな堕落した私でもなんとか生きているので、生きづらくて苦しくても、少しでも生きやすくなるような対策を考えたりして悩みつつ、なんとか楽しみをみつけていきましょう。
堕落した生活を推奨してるわけではありませんが、病気や怪我や精神的なそれぞれの事情で仕事もなにもかも満足にできなくても、死を選ぶことは、多くの人に迷惑が掛かったり、日記や何か記したもの残したままにすると、もしそれが読まれてしまったら、残された人にとって不都合が生じてしまったりするかも知れない…と思うとそれはそれでなんかツラいかも…となり、生きて秘密とか諸々は私が守るしかない!となったことで、人生リタイアを本気で考えることはだいぶ減りました。一瞬考えてもすぐ浮上できるようになったのは良かったかなと思います。
すみません、途中で話が暗くなってしまったし、タイトル関係なくなってしまいました…
違うなと思った感覚は、納得いくまで話し合えたらそれが一番良いですが、なかなか難しいのが現状です。
感覚の擦り合わせは、相手も乗り気にならないとできないことなので、簡単にはいかないことも多いです。そう思うと、自分を変えていくことが近道になるのかもしれません。
少しでもいいから、過去の自分より成長できるように、知識を増やして身につけて、快適に過ごしていきましょう(←一人でできる自信がない人(笑))。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
またここでお会いできますように。
助けて欲しいと言いづらい
こんにちは、狐野です。
突然ですけど、助けて欲しい、と素直に他人に頼める人って尊敬します。
基本的に自己肯定感が低いせいか、「私が助けを求めて何か見返りを求められても得意なこともあまりないし、何も出来ないし、助けてもらって相手の時間を分けてもらって、向こうに何か得はあるのか、ない気がする、自分でなんとかやってみるか…」となりがちなのは、私だけでしょうか…?
それでなくても、いつなら相手の都合が良い時なのかを見極められなくて、いつ声を掛けて良いのかも分からないし、コミュニケーション下手で何と声を掛けたら気持ち良く、気分を害さず引き受けてもらえるのか…とかごちゃごちゃ考えてる間に自分でやる方が早いわ!!ってなるのですよね…まぁ、大体想定より時間掛かって後悔するんですけども。
その上、相手には困ってるとか、私が一人でやってることに時間掛かっててるなとか気にして欲しい…なんて思うことがあって、本当困ったちゃん過ぎるなと自分でも思います。
自己中と言われても仕方ないというか…
助けを求めるって、どの程度なら断られないかとか、どのくらいなら迷惑になって面倒で相手の負担になるのかとか、過去に「このくらいなら全然だよ」って言われていたとしても、いざ頼むとなると、これはどの程度なんだ?!?!迷惑なレベルか、このくらいならちょっとしたことかな?!?!?!と悩んでしまうのですよね。程度というか、匙加減というか、具体的な基準を付けられない物事って、定型発達の方は今頼もうとしてる事は以前頼んだ事と同じくらいの労力だから頼んでも平気だなって瞬時に判断できるのでしょうか…私にはとても謎です。
すごい能力だなぁと、素直に尊敬します。
そういう曖昧な基準が多すぎて、とても生きづらいなぁと思うことは多いです。
しっかりして、ちゃんとして、適当にお願い、早めにやっておいてetc、etc。頼まれる言葉って、種類が多すぎて、相手が求めるレベルが分からないこともかなり多いです。
そう考えると助けを求められるのも苦手かもしれません。
例えこちらから頼むことができたとしても、自分が想定してることよりも不足していると文句を言ってしまうし(最低だなと思うのですけど、あれ?これしかやってないね…?ってなると言ってしまうのです…本当に自分勝手(-_-))、相手に誤解させないように、不足なく説明するって本当に難しくて、お互いに嫌な思いをするくらいならいっそ助けを求めず一人でなんとかしよう…となってしまうのです。
基礎にそういう思考があると、仕事では大きなミスに繋がるのでやめた方が良いのですよね。
なかなか改められないから、何度も繰り返して怒られてたりするのですよね。
解ってても何度も何度もやらかしてしまうのですよね………
ここに来られなかった間にいくつか本を読みました。
「習慣が10割」という本には、脳は快感を求め、不快なものを避けるという2つの判断しか出来ない、そして不快になっている習慣を快感に変えていければ続けられる良い習慣になっていく(すごい端折ってるのでうまく説明できてないかと思います、すみません…!ニュアンスで覚えているのでこんな感じだったかと…)と書かれていて、なるほど、と思ったのです。
私の中では、助けを求めた後が、おそらく不快な回路に繋がっているのかなと。
助けを求めた後が良い印象になるように慣らしていったら、いつかきっと他人にうまく頼れる人間になれるのではないかと気づいたのです。
知らずに試行錯誤するよりも、ヒントを得て成功率が上がる方法を試すのがきっと人生を良くすることに繋がるのかな、と思う日々です。
私の体験がどのくらいの方の役に立つかは分からないですが、ひとりでも救われたらとても嬉しいです。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
またここでお会いできますように。
想像の範疇を越えられない
こんにちは、狐野です。
もう久しぶり過ぎて忘れられてそうです。
ごめんなさい。
なんだか前回の内容と違うじゃないか?!とお思いの方、いらっしゃるかと思います。
今回はそれとはだいぶ違うことなのです。
アイデアや作品は普通を軽々と越えられることも多いのですが、こと相手の心情や言葉の受け取り方となると、思考の範囲が狭くなりがちなのです。
この言葉を言う裏にはこの意味がある、といういわゆる本音と建前のようなもの。日本人にはありがちな思考かと思います。
以前も触れたかと思いますが、こういったことが本当に苦手です。
歌詞や詩、映画やアニメ、小説といった作品については、どんな感情や隠れた意味があるかを考えることができても、自分が発する言葉や相手が直接掛けてきた言葉にはその想像力が働かないこと、ありませんか…?
おそらく処理能力の不足や、イレギュラーへの弱さ、マルチタスクが苦手、ワーキングメモリーの少なさ、注意力、集中力のなさ、と言った発達障害の特性が諸々合わさった結果なのだと思います。
作品として触れられる言葉たちは、何度も見返して、時間をかけてゆっくりと考えることができるので、それらを考えることはとても楽しいことだったりします。
自分から発する言葉でも、ブログやSNSで発信する文字として確認できるものならばまだ思考を巡らせてから発言できます。
けれど、対人で即興となったら失言はするし、合わないテンションで不快にさせたり、受け取り方が変だったり、失敗の繰り返しです。
雑談が苦手なのはそのせいもあると思います。
話がころころ変わるのについていけない、話題が変わったことに気づいても、もっとさっきの話をしたかったのに…なんて考えているうちについていけなくなったり、全然関係ない話題を思いつきで話してしまったりします。雑談と言えど、ある程度集中力がないと置いてけぼりになることもしばしば。
子供のうちは特に「あいつなんか合わないな」と仲間外れにされることもあるかもしれません。
そうなると楽しい場所が減ってしまい、不登校に繋がることもあるかもしれません。
と、ここでタイトルを思い出してみます。
"想像の範疇を超えられない"
これは当事者のことだけではなく、定型発達の方々は簡単には普通を越えられない、ということでもあります。
目に見える障害、例えば足が不自由なら、エレベーターを使いたいだろうな、と想像することは難しくないと思います。ですが見えない障害、精神面、思考の偏りなどはどうでしょうか。
自分が体験したり、見たり読んだりの疑似体験をしない限りは、想像することが難しいのではないかと思います。
少し話は違うかもしれませんが、当事者の方々は、悪意を持ってわざとこれを言ってやろう、と思う事はそこまで多くないのではないかと推測します。
私がそうだからなのですが、この言葉はよく皮肉として使われるんだよ、といくら説明を受けても同じ人からではあまり響かなくなってきます。
自分はちょっと独特の考えをしてるな、とある程度成長してくると違和感を覚えたりすることがある中で、同じ人からこの言葉にはこんな裏の意味があると何度言われても、誰聞いたの?どこの統計?何人中何人がそう感じるの?普通はどっちかハッキリしてよ、という感情が出てきてしまい、話に集中できなくなったりします。
世間一般ではどうだからやめた方がいい、と言われるより、自分は不快に感じるからやめて欲しいと言われた方が理解できますし、相手もそれで納得してくれるととても良いと思います。
世間一般の話はしていないのに、世間一般と違うからおかしいと言われても、分かってるけど自分はこう感じるからやめてって言ってるじゃん、なんでわからないの???となりがちです。
相手に理解して欲しいと無理矢理押し付けるのも違うかなとは思いますが、関係が近ければ近いほど、少しでもいいから違うことを認めて欲しいと思ってしまうものです…
「そっか、あなたはそう感じるんだね。次からは気をつけるけど、忘れてまた言っちゃったらごめん」
「忘れるのは仕方ないけど、言われたら反応しちゃうかも。今度はなるべく優しく嫌だと伝えるようにするね」
という感じになるのが理想ではあるのですが、現実ではなかなか難しいですね。そこは経験を積んでだんだんとできるようになっていきましょう( ˘ω˘ )
そんな会話も、そんな風になればいいなという想像でしかなく、もっと良い対応があれば、是非教えていただきたいです。
自分の行動言動が想像の上(というより、他人にとっては的外れというのでしょうか)を行くことがあっても、アイデアや思考は自分の範疇を越えられない事は、致し方ないことです。
他人とたくさん関わったり、本を読んだりする事で、想像力の限界をアップデートしていかないといけないですね。
いい感じにまとまった気がするので、今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
またここでお会いできますように。
世界に1人だけの存在
どうもお久しぶりです、狐野です。
毎度毎度お久しぶりで申し訳ありません…
世間体がどうとか、世界に馴染めないだとか、性格が良くない?とかタイトルがピンと来ないとなかなか進まないのは悪い癖なんです…言い訳してすみません。
さて、気を取り直して、早速タイトルについて書いていきます。
定型発達の方のいわゆる普通という感覚の分からない発達障害民なのですが、普通の感覚に頼らずに違う切り口から切り込めたり、他にはない発想をしたり、悪いことばかりではないことは、有名かと思います。
他の人には浮かばないメロディや、歌詞やファッションや芸術的な面だけでなく、日常生活を送る際もそんなことが多いはず。
私の場合は、これってこうしたらもっと改善できるのでは?と思うことはたくさんありますが、それを実現する方法まではわからないので、いつも思いついて終了して、アイデアをノートにでも書いてなければだいたい次の瞬間には忘れてるんですけどね…
ちゃんとそれを実現出来る方は尊敬します!
思いついたアイデアや作品を世に出そうと思っても、「普通」そんなことは考えない、そんなのおかしい等、家族や友人、恋人やパートナー、周りのから理解が得られなくて凹んでやめてしまったり、再考してもいいものが思いつかなかったりして、世間の役に立つ形になることは少ないのかもしれません。
それでも押し切れる勇気があったり、運良く共有できる仲間が見つかったり、周囲の理解が得られた方々が、きっとこの世に良い作品や便利な道具を発明して広めているのだと思います。
過去の偉人やアーティストが実は発達障害だった、という話もありますので、発達障害だからと落ち込まず、自分にしか出来ないことを見つけて伸ばしていけるといいのかなと思います。
私もまだまだ模索中ですが、こんなことがやりたいなぁは朧げにはあります。
精神的に不安定な時期が多く、なかなか本格的に進められてはいなくて、やってみたいが多すぎて何からやろうか絞りきれないのも、あちこち注意が散乱してるんですよね…
どちらかと言うと、私は誰かに依頼されてそれを完成させるというのが楽しいと思うタイプなので、そんな感じのオリジナリティのある仕事がしてみたいなとふわっとしたことしか考えられてなくて、生活するのに精一杯の今現在ではやれる余裕がない、というのが現状です。
服をリメイクするとか、あれをこうしてみたらどうだろうとか、いろんなアイデアは思いつくのですが、自分が満足するためにやる、ってことがあまり得意な方ではないので、〇〇のために、ってのが明確でないと進まないんです…
まずはやってみるのが大事なのは分かってはいるのですが、自己満でできない上、周囲の理解が…というところに戻ってしまうんですよね。
一歩踏み出す勇気がない。
…と、なんか沈んだ雰囲気になってしまいました。気を取り直して…
この世に生まれてきたからには、何か少しでも生きた証のようなものを残せたらと思うのです。
それが誰かの心に残って、私が存在した証になったら嬉しいなぁと思うのです。
社会的にも不安定な日々の中、少しでも前に進めるよう頑張りましょう。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
またここでお会いできますように。
"好き"を大切に
いつもお久しぶりですみません、狐野です。
よく障害があるが故のこんな不自由や他人に迷惑かけてます的な記事書いてますが、今回はプラスの面も紹介します。
私の記事で初めて発達障害、発達障害グレーゾーンを知った、という方は少ないと思うので、知ってるよ!って方も多いかと思いますが、ここのブログ良くないことばかり書いてある、と噂になって読者さんが離れていくと悲しいですので、今回は明るめの話です。(それ言っちゃうんだ、っていうことまで言いがちな狐野です(笑))
さて、タイトルの件。
本当ね、好きなことはトコトン語りたいし、いくらでも何度でも語りたくなるんですよね。
どんどん深い知識身につけたいし、技術がいることなら難しいことにもチャレンジしたいし、やりたいこと始めたら時間だけでなくご飯も忘れるほど集中できてしまうんですよね。
過集中、ということもありますが、熱中して何かに取り組むことができるのは凄いことです。
私はどちらかというとADHDの方が強めなので、あちこち意識が飛んでなかなか集中出来なかったりするので、声かけても全然聞こえないほど集中できるのは羨ましいです。
気が散りやすいし、気になることがあるとそれまでやってること忘れて、気になる事をやってしてしまうので、物事をやり遂げる能力が低い私は、周りから見たらとても不真面目に映るんだろうなと思います。まぁ実際、真面目に取り組むという言葉の意味は分かっても、どこまでどんな風にしたら周りから見てその状態になるのかが理解できていないわけですが…
気分次第でうまく進められなかったり、頼まれたこともすぐ取り組めなかったり、他人に迷惑かけることが多くて困りがちです…って、また暗い話になってますね、すみません!
私も集中できると、ずーっと部屋片付けてたりします(笑)
部屋が片付けきれてないので、あれをこっちこれはこっち、と考えながらやると時間がかかるので、いつの間にかこんな時間?なんでことがたまにあります。
…って、これじゃ困り事になってますね。
褒められ慣れてなくて、自分のことを長所にできない悪い癖です。
楽しい記事にしたいのにうまくいきませんね…
仕事に集中できてなかったからたくさんミスして、たくさん怒られて、たくさん「なんでこんな簡単なことも出来ないんだ?」って言われてしまったんですよね…出来ない出来ない言われ続けたら、余計に出来なくなる気がしてきてそこから逃げ出してしまって今に至る訳ですが…
最近は職場で失敗する夢も見なくなりました。ストレス等で調子の上がり下がりはありますし、仕事が安定してできるかと言われたら難しいのかなと思いますけど…ってまた暗くなってるね?!?!
ダメだ、根暗が漏れ出てしまう…ここに来るのはハイな時か鬱々してる時のどっちかが多いのである程度は仕方ないのかなと思いつつ…(脱線するわ、言わなくても良いことまで言う狐野である)
なにはともあれ、好きなことを極められるのはとても良いことです!
好きなものは好きだからしょうがない!ってことなんですよ。何故好きなのか深く考えなくても好きなモノは好き、でいいんです。
嫌いなモノ、苦手なモノは何故嫌いなのか、苦手なのか理由を見つけて克服した方が良いことがあっても、好きなものを諦める必要はないです。勿論理由が明確にあってこれが好き、も最高ですが、なんとなく好きにも意味はあるのです。好きは愛の卵、好きは力、好きは自分の人生を彩る色鉛筆、花、スパイス等々、好きを表現する言葉は無限です。
是非、"好き"を大切にしてください。
私が言うまでもなく、皆さん大切にしてるのではないかとは思いますが(笑)
ではかなり無理矢理ですが、明るく締められるので本日はこの辺で。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
またここでお会いできますように。